昭和43年05月03日 朝の御理解
「真に有り難しと思う心すぐにみかげのはじめ」と。真に有り難いと思う心すぐにみかげのはじめなりと。真に有難しという心、それを求めて行くのが信心だと思います。真に有難くなる為の精進を惜しんではならん。真に有難くなる真に有難いと思う心を、第一頂きたいと願わにゃいけん。真に有難くなりたいという心を願わずに、おかげだけを願う。是では本当のおかげになって来ません。真に有難くならして貰うという。
三代金光様は、日々がさら、さらで御座いますでしょう。日に日にがさら。さらな信心、さらな心と。昨日ある方が、さらな心にはどう言う風にして、あのぅ行ったらさらな心に成れるだろうかと、まあ考え続ける。それでさらな心、さらな心とこう思うておるけれども、中々そのさらな心になれないし、又なる方法が分からない。そこで私はもう、その方に申しましたんですけれども、御教えを頂いてね。
本気で改まろうという気になる事だ。本気でその改まらして頂くと言う事は、今まで自分になかった所のもの、自分に感じられなかったもの、そ、そこが出て来る。改まると言う事、改まった自分と言う事は、もう今までの自分ではない。信心は矢張りもうそこなんです。そこからさらな心が生まれて来る。新たな物の見方、考え方が、開けてくる。それは丁度、初めての所を旅する様なもの。
どこにも決して同じ景色はない。歩いておる事は同じであっても。同じ景色じゃない、景色が目に入って来る様なもの。仏教の言葉に「一期一会」という言葉がある。もう只今という時はもう、後にも先にも「ただ今」だけなのだ。同じであると言う事はない。こうしてお話を皆さん頂いて下さっておる。この話をほんなら、また頂こうと言う訳にはいかん。そういう例えばまたとない。
その時間というか、時というものをですね、私共がです、日々こう変わっていくその心で、頂く。毎日毎日、まあいうなら、形の上においては同じ様な状態、同じ様な事だけれども、そこから同じじゃない心の状態と、同じじゃないおかげが現れて来るのだ。ね。「生神金光大神、天地金乃神一心に願え。おかげは和賀心にある」とこう。もう今月今日と言う事は、もう今月今日只今と言う事なのである。
その只今を願って行くというか、何を願って行くかというと、どうぞ私の心の上に、さらな心を願っていく。今月今日でおかげを願って行くのじゃない。今月今日を只今、私の心の上におかげを頂きたいと願う事はそのまま、ね、今月今日只今の状態で良いと言う事はない、一分ずつでも一厘ずつでも変わらして頂きたいという願い。そこに、今月今日ただ今を、いよいよ本気で大事にしていかなければならない。
もう待たず、もう又とないそれは時だから。ある先生は仰った、「時間は神様だ。時間そのものが神様だ」と言う風に言われたという。それ同じ事だとこう思うですね。例えばここで御理解を頂く人達が、まあ私の十何年間お話をして来た事を、よくよく考えてみるといいです。同じ事ばっかり。もう何時もその内容は同じ事。けれどもそれそれが何時も私自身が斬新なものとして頂いておるのであり。
それを聞かして頂く者も、またさらなものとして頂いておる、おれれると言う事は矢張り私が新しく変わった私が話しておるからなんだ。もう何時も磨き改まりという話ばっかりなんだとね。もうそれ以外にはない。それでいてんならお話をするその雰囲気とか頂くそれが又頂き所というものを、まあ新たなものとしてこう頂けれる。これは日に日にさらな信心を願い続けておかげを頂いておるからなのだ。
と言う風にま今お話をしたんですけれども、確かにあの改まると云う事。改まって行かなければさらなものは生まれて来ない。同時に私は最近自分の体の事を通してから感じるのですけれども、矢張り辛抱する事だと思うんですね。辛抱するというかそうですねそのおかげを、おかげは求めないというかね。まあ言うならまあ私が、例えば私とたべ現在食べ物と言う事を考えてもです食べたい食べたいという心にはね。
もう決してそのさらな心は生まれて来ないですね。
食べたい食べたいという時に、食べたも食べものをですね、目の前に並べて頂いてもその「真に有難い」と言った様な心は生まれて来ない。けれども食べたいけれどもそこを辛抱する。神様に縋って辛抱をする。又はもう食べんぞという気になる。そこから不思議に真に有難いものを、又はさらな心というものが生まれて来る。ね。おかげを頂きたい頂きたいという心には私はさらな心は生まれて来ない。
食べたい食べたいという心にはです、食べた物を食べる物を前に出されてもです、それはあの嬉しい事は嬉しい。美味しい事葉美味しい。けれどもいくら食べてもまあだ頂きたらん様な気がする。おかげおかげというて頂いてもです。どれだけ頂いても頂きたらんごと思う。真に有難いという心とは、もうほど遠い事に成って来る。そこで私達が、辛抱する。信心辛抱させて貰う。辛抱の後に生まれて来る物。
それが真に有難いという心である。又は、そこからさらな心が生まれて来る。生まれて来る、というよりも与えられる。どうして例えば、辛抱すればさらな心が生まれてくるか。どうすれば食べんぞという気になったら、さらな心が生まれてき、真に有難いという心が生まれて来るか。不平不足が起こらないか。それは神様の働きが、日々刻々にね、さらな働きがあっておるからなんです。
またと会う事の出来ない、いわゆる一期一会の働きと言うか。そういう神様のさらな働きがあっておるから、私共がそう精進する、そこからその神様の心と、私どもの心というのが一つになる。そこから本当の意味でのあいよかけよの働きが生まれて来る。どんなに例えば、だから枯れた心と申しましょうかね、または枯れかかった心というか、ではおかげは受けられないというのが分かります。
もう元気な心で信心せよとこう、生き生きとした心で信心をさして貰う。いわゆる修行精神である。例えば、枯れた木が天地に向かって、伸ばして下さい、花を咲かして下さい、葉をしこらして下さいというても、是は、いかに天地の中にどういう働きがあっておっても、是を生かす事も、伸ばす事も、花を咲かせぇる事も出来ない様な訳です。ね。ところが私共がです、生き生きとしたその心でです。
私共が「願い」をかけるとこに、所にです、それを育てて下さる事も、葉をしこらして下さる事も、花を咲かせて下さる事も出来る。それが神様の働き。ね。だから、そういうさらな心と、神様の日々刻々にお働きをなさっておるその働きとが一つになって初めて、花も咲きゃ実が、実も実ると言う事になるの。だから先ず私共がですね。その生き生きした心というか、さらな心と言う物を、又は真に有難くならして頂きたいという心を、まず起こさなければならないと言う事。
真に有難くなる為には、さらな心とはどうしたら生まれて来るだろうか、とかそこの求める焦点というものがそこになからなきゃいけん。「真に有難しと思う心すぐにみかげ、霊験のはじまり」と仰るのです。ですから、真に有難しという心を、先に求めなければならない事が分かる。そこで私は私の、最近の食生活の上から頂くさい、体験です。食べたい、食べたいまあだかという時には、ねぇ。
いくら出して貰ってもそれが美味しい事は美味しい。けれども食べてしもうたら、あぁもうちっと食べたいという心が生まれて来る。与えられても与えられてもまあだ頂きたらん様な気がする。北野の中村さんがもう10年も前だったでしょうかね、ある事を一生懸命願っておられた。是をも繰り返し繰り返しもう一生懸命願っておられる。そしたら親先生のお声で頂いた「いくら頂いても頂きたらんごと思うとる。」
と言う様な声で。で気づかして頂いた。ほんとに思えば思う程、おかげはもうそれこそ、もう勿体無い程頂いておる。けれども、まあだ頂きたらんごと思うとる所に、もう繰り返し繰り返しその、どうでもこうでも、おかげ頂かして下さいちいうて願いよる。ね。そこで中村さんが、頂いておる事のおかげ、いわゆるおかげの整理をされる心になった。ほんとにあの時にああいうおかげを頂いて、こんなおかげを頂いて。
思えば思う程、成程おかげは頂き過ぎる事頂いておる。それに又おかげを下さい、おかげを下さいというて願うておる、それがです相済まん事出あった、お礼をする事であった事を気付かして頂けた。もう願う事はなくなったおかげで、おかげそのその願いは成就した。そういう話。ね。それがです、おかげを頂きたい、おかげを頂きたいと私共がです、おかげをおかげをばっか言いよるとですね。
いくら頂いてもその時有難いごとあるけれども、もう何時もいつも何時も不足である。頂きたらんごと思う。神様がこの私の健康を願うて下さるならで、そんなに腹いっぱぁい頂かせなさる筈がない。丁度よい位しか与えなさる筈がない。それを私共いわゆる我情我欲に、食べた上にも食べたいという卑しい心がある。そういう卑しい心私はおかげを頂きたいおかげを、おかげおかげというのは私は卑しい心だと思う。
食べた上にも食べようとする。そこで私共は、時々おかげの整理がいるのである。是はもう、私のこりゃもう実感なんです。だからまあ辛抱する、神様にお縋りして辛抱する。そこに与えられる有難い真に有難い。真に有難いからそれで十分と言う事はなくてもです、まだ欲しいと行った様な心は起こって来ない。それがもう少し高度になると頂かん、もう食べんという気になる。
その食べん要らんというその心に与えられるのですからいよいよ有難い。その有難いのがさらな心である真に有難いという心。そういう心で私共がですね、焦点を変えた所の願いに立たなければいけん同じ願いでも。「真に有難しと思う心、すぐにみかげのはじめ」。もうそこにはおかげが、もう何時も待ち構えておる。時々刻々に、神様のそういうおかげやりたしという働きが、もう絶えずあっておる。
それを頂きと、頂き止める為に私共がさらな心、真に有難いと思う心を求めて行かなければならん。求める焦点が違ってはおかげは頂いても、中村さんじゃないけれども、いくらおかげ頂いても頂い、頂き足らんごと思うとると言う事に成って来る訳である。私共が頂いておるそのおかげをです。おかげと気付かして貰うて、お礼を申し上げていく、お礼不足だと、そこんとこを唯お礼、お礼と言う事がです。
ほんとにお礼不足ならお礼不足である事に気付かして貰うて、お礼の信心にならして貰う所に、願わんでも頼まんでもおかげが頂ける、というのが、信心。おかげをおかげをと。その願う心では、よしおかげを頂いても、どれだけ頂いても頂き足らんごと思う。そういう状態の上にです、もう神様が限りなく下さるおかげに触れられる筈がない。もう食べんぞと、又はそれを神様に縋っての辛抱になって来る時にです。
与えられるものが有難い、不足がない。さらな心というのは改まる所からさらな自分が生まれる。そのさらな、新たに出てくる自分それが、さらな心である。信心辛抱し抜かして貰うその辛抱し抜かして頂くその先にあるのが、さらな心であるもう食べんぞという心、いわゆる卑しい心、おかげおかげという心を捨ててしまって、本気で「もう食べんぞ」と言う様な意味での修行に取り組まして貰う。
そこにはひもじさもない。そこに与えられるもの、そこに真に有難いというおかげに触れる事が出来る。そこに与えられるもの、何を与えられても有難い。そして是で足りないと言う事はない。与えられるそのものが有難い。私はこのさらな心というのはそういう様に、私は様な生き方からしか生まれて来ないと思うのです。信心は日々がさらである。日に日にさらな信心と、三代金光様は仰っておられるが。
三代金光様、金光様のああした信心ご辛抱の、ご信心の中から思う事も無くなり、欲しい物も無くなると仰るもう何にも欲しられないその心から限りないいわゆる霊験に触れておいでられたんだと言う事なんだ。私共はそこがおかげおかげと、おかげばかりを願う。いわゆるそのおかげおかげという、食べたい食べたいというその卑しい心が、それを与えられたに致しましても。
それは本当に有難いのじゃ、真に有難いのじゃあない。「すぐにみかげのはじめ」に継がっていない。ただ願った事が、成就する事が、只嬉しいだけである。だからそれが段々薄く成って来ると、もうその事のお礼は忘れてしもうて、次の事を願う。そこに幾らやったっちゃ、幾らやったっちゃ、頂きたらんごと思うとる、と言う事に成って来る。そういう意味で、私共はね。
おかげの整理をさして貰うと言う事から、ほんとの信心が分からして貰、又はさらな心が生まれて来る。真に有難いと思う心が生まれてくる。その真に有難いという心にはです、願わんでも頼まんでも、「すぐにみかげのはじめ」というものが継ながっておる。勿体無い事じゃ、畏れ多い事じゃという、私そのおかげが継ながる。そういうおかげを頂いて行きたいと思いますね。
どうぞ。